The Art of Strings vol. 7

是永 巧一 KOUICHI KORENAGA

Profile

【Guitar , Compose , Arrange & Produce 】
1961年12月25日生まれ 大分県出身

84年頃から「REBECCA」の全てのREC及びTOURに参加。 故ロバート・パーマーやニール・ヤング&クレイジーホースら 海外アーティスト、ミュージシャンとの交流も深く、彼らからインスパイアされた 既成概念にとらわれない活動を続けている

{プロデューサー、アレンジャーとして}
八神純子、ONE OK ROCK、黒夢、BUBBLGUM CRISIS(アニメ)他多数

{レコーディング参加アーティスト}
尾崎亜美、梶浦由紀、八神純子、伊藤蘭、福山雅治、矢沢永吉、広瀬香美、 TM Revolution、浜崎あゆみ、工藤静香、MAX、TRF、知念里奈、他多数

{ライブ参加アーティスト}
Rebecca(’85-)、ASKA、尾崎亜美、梶浦由紀、八神純子、伊藤蘭、 Crystal Kay、渡辺美里、宇都宮隆、ロバート・パーマー、他多数

THE COLLECTION: 是永巧一

是永巧一が愛用するギブソンを紹介

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"Breath of Bless"
"Hello"

Interview 収録後インタビュー

2024/1/11 at BS&T studio
Interviewer: Tak Kurita Gibson Brands Japan
Special Thanks: Jun Sekino

現行品の最新モデルを弾く機会ってあまりないと思いますが、今回使ってみていかがでしたか?
正直びっくりしました。時折、楽器店で弾いてみたり、人が持っているのを弾かせてもらったりはしてて。まあ流石にヒスコレはいいじゃないですか。なんですけど、このシリーズ(マーフィー・ラボ・コレクション)は弾いてみて、やっぱり音のオーラがすごいなと。キャラクターもすごくはっきりしているし。ヴィンテージも弾いたことがありますが、イメージ的にそれと近い感じです。

是永さんって、“とことん機材にこだわる”ってイメージがあります。例えば「ピックアップはハムなら4,800ターン指定」とか。
ハハハ(笑)ハイハイ。

イヤモニへのこだわりも強いですし、そこまで突き詰めなくちゃだめなんですか?
職人気質ってのじゃなくて、その時のマイブームなんです。エレクトリックギターって、ギターだけじゃなくてアンプとかエフェクターとかあるじゃないですか。子供の頃から、そのポイントっていうのにマイブームでハマることが多かったので、その延長もあるんです。

収録を見ていて感じたのは、ものすごくニュアンスにこだわりがある。だから表現力を極めるための選択をしているように感じるんです。ピックアップだったらパワーが強すぎないとか、ピックであれば当て方によって音が変わるようなものを選ぶとか。
うんうん。

是永さんが出そうとしている音は「情景が見える」とか「風景が見える」と自ら表現していますが、それって具体的にどんな音をイメージしていますか?
今回やったのも自分の中で風景、空気、匂いっていうイメージがあります。叙景的なものが好きっていうのもありますが、音とは違う心の中にあるものっていうのは視覚イメージ。視覚イメージというと、やっぱり色合いじゃないですか。色合いみたいなものに、こだわりたいと思っています。

今回の2曲を選んだ理由は?
「Breath of Bless」は、まずエピソード的にはコロナ禍の時にみんな家にこもって「何をしたらいいんだろう」という時期があったじゃないですか。その時に懇意にしているASKAさんから「コレちゃん、俺の曲をギター・インストでやってみないか」って電話があったんです。そこから曲をもらって、自分でアレンジしてギター・インストに置き換えるイメージを作って、メンバーを決めて、“Learn to fly”っていうユニット名にしました。ロサンゼルスにいるメンバーもいれば、東京にいるメンバーもいたので、ネットを使ってデータのやり取りで作っていったんです。
ASKAさんは、“アスリートがオリンピックの時に”って気持ちで作ったみたいなんですけど、僕の場合だと、その頃はみんなコロナで羽をもがれた感じだったじゃないですか。“Learn to fly”っていうユニット名には、もう一回飛び方を学んでいく、もう一回飛び立つという思いがあって。プロモーション映像みたいなものを作ろうと思った時に、好きな公園に行って、そこにすごく好きな樹があったんです。その樹を見ていて心がすごく癒やされたので、まずそのイメージがありきで、そこから物語が展開していくような感じです。

なぜASKAさんは、この曲を是永さんに託そうと思ったのでしょう。
どうなんですかね。ただ、あの人は確信に近いインスピレーションを持っている人だから、確信があったのはわかるんです。「久しぶりにツアーに一緒に来てほしい」と言われて行った時に、リハーサルの終わりの頃になって「今回のコンサートのオープニングはコレちゃんが一人で前に出ていってBreath of Blessから始めてほしいんだ」って言うんですよ。「あ~、やっぱりね・・・わかりました」と。だから何を感じたのかはわからないですけど、確信を持ったインスピレーションをいつも携えている人だから、そこをずっと信頼して飛び込んでいくようにしてます。

演奏する時も実風景をイメージするのですか?
はい、すごくしています。気持ち、憶えている匂い、向かって行く先というか・・・。「Breath of Bless」だったら、もう一回飛び立つというイメージとか。「Hello」もよくライヴでやっていた曲です。これは20年以上前に「アメリカ行っちゃおうかな、どうしようかな」って迷っている時に、ロサンゼルスの小原礼さん(ex.サディスティック・ミカバンド)の家に遊びに行ったんです。小原さんみたいな人生もすごく憧れていたし。その時にアメリカに行ってからの大変なこともたくさん話してくれました。帰りの飛行機に乗った時に、ブワ~ってメロディが流れてきて頭から離れなくって。大親友の羽田一郎くんっていうギタリストがいまして、できていなかったBと間奏パートは彼が考えてくれて。2人の奏者が出会って会話を交わしてっていうストーリーの曲として作ったんです。「アメリカ行っちゃおうかな、どうしようかな」っていうグッバイ的な感じなのかなって話をしてたら、羽田くんが「Hello」っていうタイトルにしようって言ってくれて。

「アメリカ行っちゃおうかな」ってのは、日本にいて何か思うところがあって?
90年代はアメリカにいることが多かったんです。で、生活をしていてすごく自然だったんですよ。あちらにミュージシャンの友達もけっこういたし、行っちゃおうかどうしようかなと。そうこうしているうちに、色んな事情でそれは一回やめちゃうんですけど。その時に自分がそっちにいる方が自然に感じたってことですかね。

The Art of Strings vol.7 KOUICHI KORENAGA Interview

2024/1/11 at BS&T studio
Interviewer: Tak Kurita Gibson Brands Japan
Special Thanks: Jun Sekino

現行品の最新モデルを弾く機会ってあまりないと思いますが、今回使ってみていかがでしたか?
正直びっくりしました。時折、楽器店で弾いてみたり、人が持っているのを弾かせてもらったりはしてて。まあ流石にヒスコレはいいじゃないですか。なんですけど、このシリーズ(マーフィー・ラボ・コレクション)は弾いてみて、やっぱり音のオーラがすごいなと。キャラクターもすごくはっきりしているし。ヴィンテージも弾いたことがありますが、イメージ的にそれと近い感じです。

是永さんって、“とことん機材にこだわる”ってイメージがあります。例えば「ピックアップはハムなら4,800ターン指定」とか。
ハハハ(笑)ハイハイ。

イヤモニへのこだわりも強いですし、そこまで突き詰めなくちゃだめなんですか?
職人気質ってのじゃなくて、その時のマイブームなんです。エレクトリックギターって、ギターだけじゃなくてアンプとかエフェクターとかあるじゃないですか。子供の頃から、そのポイントっていうのにマイブームでハマることが多かったので、その延長もあるんです。

収録を見ていて感じたのは、ものすごくニュアンスにこだわりがある。だから表現力を極めるための選択をしているように感じるんです。ピックアップだったらパワーが強すぎないとか、ピックであれば当て方によって音が変わるようなものを選ぶとか。
うんうん。

是永さんが出そうとしている音は「情景が見える」とか「風景が見える」と自ら表現していますが、それって具体的にどんな音をイメージしていますか?
今回やったのも自分の中で風景、空気、匂いっていうイメージがあります。叙景的なものが好きっていうのもありますが、音とは違う心の中にあるものっていうのは視覚イメージ。視覚イメージというと、やっぱり色合いじゃないですか。色合いみたいなものに、こだわりたいと思っています。

今回の2曲を選んだ理由は?
「Breath of Bless」は、まずエピソード的にはコロナ禍の時にみんな家にこもって「何をしたらいいんだろう」という時期があったじゃないですか。その時に懇意にしているASKAさんから「コレちゃん、俺の曲をギター・インストでやってみないか」って電話があったんです。そこから曲をもらって、自分でアレンジしてギター・インストに置き換えるイメージを作って、メンバーを決めて、“Learn to fly”っていうユニット名にしました。ロサンゼルスにいるメンバーもいれば、東京にいるメンバーもいたので、ネットを使ってデータのやり取りで作っていったんです。
ASKAさんは、“アスリートがオリンピックの時に”って気持ちで作ったみたいなんですけど、僕の場合だと、その頃はみんなコロナで羽をもがれた感じだったじゃないですか。“Learn to fly”っていうユニット名には、もう一回飛び方を学んでいく、もう一回飛び立つという思いがあって。プロモーション映像みたいなものを作ろうと思った時に、好きな公園に行って、そこにすごく好きな樹があったんです。その樹を見ていて心がすごく癒やされたので、まずそのイメージがありきで、そこから物語が展開していくような感じです。

なぜASKAさんは、この曲を是永さんに託そうと思ったのでしょう。
どうなんですかね。ただ、あの人は確信に近いインスピレーションを持っている人だから、確信があったのはわかるんです。「久しぶりにツアーに一緒に来てほしい」と言われて行った時に、リハーサルの終わりの頃になって「今回のコンサートのオープニングはコレちゃんが一人で前に出ていってBreath of Blessから始めてほしいんだ」って言うんですよ。「あ~、やっぱりね・・・わかりました」と。だから何を感じたのかはわからないですけど、確信を持ったインスピレーションをいつも携えている人だから、そこをずっと信頼して飛び込んでいくようにしてます。

演奏する時も実風景をイメージするのですか?
はい、すごくしています。気持ち、憶えている匂い、向かって行く先というか・・・。「Breath of Bless」だったら、もう一回飛び立つというイメージとか。「Hello」もよくライヴでやっていた曲です。これは20年以上前に「アメリカ行っちゃおうかな、どうしようかな」って迷っている時に、ロサンゼルスの小原礼さん(ex.サディスティック・ミカバンド)の家に遊びに行ったんです。小原さんみたいな人生もすごく憧れていたし。その時にアメリカに行ってからの大変なこともたくさん話してくれました。帰りの飛行機に乗った時に、ブワ~ってメロディが流れてきて頭から離れなくって。大親友の羽田一郎くんっていうギタリストがいまして、できていなかったBと間奏パートは彼が考えてくれて。2人の奏者が出会って会話を交わしてっていうストーリーの曲として作ったんです。「アメリカ行っちゃおうかな、どうしようかな」っていうグッバイ的な感じなのかなって話をしてたら、羽田くんが「Hello」っていうタイトルにしようって言ってくれて。

「アメリカ行っちゃおうかな」ってのは、日本にいて何か思うところがあって?
90年代はアメリカにいることが多かったんです。で、生活をしていてすごく自然だったんですよ。あちらにミュージシャンの友達もけっこういたし、行っちゃおうかどうしようかなと。そうこうしているうちに、色んな事情でそれは一回やめちゃうんですけど。その時に自分がそっちにいる方が自然に感じたってことですかね。

是永さんのキャリアは殆ど日本のポピュラー音楽と並走ですよね。
いや、まあ、そんなこともない。

今の日本で若者から年配の方まで是永さんのギターの音を一度も耳にしていない人っていませんよ。
どうなんですかね。自分は家では他の人のばっかり聞いてるんで(笑)

去年は、八神純子さん、ASKAさん、尾崎亜美さん、クリスタル・ケイさんもそうだし、あと伊藤蘭さんも。サポートとして多岐にわたる活動をされてますけど、サポートでギターを弾く時って是永さん自らのアーティスティックな部分の抜き差しってどうやって調整しますか?
かなり突っ込んだところですね。語弊がありますけど、立場の話ではなく音楽を作る上ではサポートという言葉よりも一歩踏み込んだところでやりたいなと思っていて。やっぱり一緒に何かを人に伝える、その一部になりたいなと思っています。自分なりに役柄を決めるんです。“僕はこの場ではこういう役でいこう”と。音もステージ上での行動もそれになりきって。そういう風にやりたいなと思っています。

やりたいことと、やっていることが、アーティストの方が求めているものになっているから仕事が続くんですね、きっと。
やっぱり音楽をやる上で、こう弾きたいとか、こういうのやろうとか、みんな色々思うわけじゃないですか。でも数年前から思っているのは、正直な気持ちですけど、自分は皆さんのおかげで幸福に生きていますと。で、自分がやっていることで少しでも人に何かいいことがあったらいいな、喜んでくれたらいいな、と思うじゃないですか。そこで思うことは感謝の気持を持って演奏しようと。まずはその感謝の気持から始めようって思ってます。さっきサポートの時にもう一歩踏み込んでと言った時に「語弊がありますけど」って言ったのも、基本理念は感謝の気持から。全体が良くなるその一部になれたらいいなと思ってやっています。

それって若い時からじゃないですよね。
違いますね、圧倒的に。

だってシュレッドなプレイもいくらでも、やろうと思えばできるんですから。
若い時はわざと直球ではいかないとか、正体が見えない風にやりたいって思っていた。なんでもできるじゃなくて変幻自在でいたいなって。

日本のポピュラー音楽といえば、子供の頃って気づかなかったんですよ、テレビにキャンディーズが出てるの見てても、その凄さに。歌唱力は言わずもがなですが、例えば「微笑がえし」って、イントロもエンディングも印象的なギター・ソロですよね。
そう、そう、伊藤蘭さんのツアーで思い知らされた。その時代その時代で、すごい情熱を持って新しい音楽とか自分達がやりたいこととか、わかりやすい例でいうとカウンター・カルチャーからできたものをメジャーにしていくっていう作業に近いと思うんですけど、そういう風に思った集団がいたわけですよ。今キャンディーズの話になったんですけど、蘭さんやって“この人達こんなこと考えてやってたんだ”と。僕は構造的に一番近いと思ったのは今の時代だとBABYMETALで、当時だとキャンディーズ。そういう3人を核として全部のスタッフがそういうことをやっていたんだなって。大人になって気づくようになりました。

ですよね。子供の頃は全然わからなかった。
「すごい変えてる」って、みんなは思っているかもしれないけど、一回は(オリジナルを)完コピするんです。まあ演奏を聞くと、どれだけすごいっていうか、当時の皆さんがパッション、才能に溢れている演奏をされていたのを本当に思い知りました。

是永さん自身のことに戻りますけれども、実家が酒蔵で小さい頃から音を出せる環境にあった?
そうですね。今思えばこれも感謝です。

その頃はジェフ・ベックはもちろんですけど、今でいうクラシック・ロックとかクロスオーバー的なものにひかれていた?
酒蔵で家が広かったんでオジキん家とウチと二軒で住んでいて。叔父たちがジャズをやっていてセッションする部屋があったんです。そこにはエレキギターもアンプもあって。その頃はT.レックス(マーク・ボラン)みたいになりたかった。そこから始まって、スケールを教えてもらったりして。その頃クロスオーバーが出てきた。田舎なので音を出せる部屋っていっても防音していないんです。しかも通りに面しているところにわざわざその部屋があるんです。これは聞かせたかったんだなと(笑)、後になって気づくんですけど。

話は変わりますが、梶浦由記さん(映画、ドラマ、アニメ、ゲーム等の楽曲制作)のサポートって、また全然違ってくるじゃないですか、作風が。朝ドラ、アニソン、劇伴って、ぜんぜん違う作品とリスナーなので、今まで出たアーティストの方々のサポートとは異なるアプローチとか環境になるのかなと。
鋭いとこで、僕はエスニック・ミュージックが好きだし、ミニマル(短い素材の反復フレーズを使った音楽)のスティーヴ・ライヒとかも好きなんですけど、そういう要素をポップスの中に入れていく。僕は何でも弾けるわけではなくて、ジャズもカントリーもスタイリッシュに弾けるわけではないのですが、関わる幅は広いですよ。以前はポップ・ミュージックにちょっと薬味というか毒味的なものを入れていくようにやってました。梶ちゃんの場合だと馬が合っちゃって、すごくマニアックなことをやってもいいんです。95%くらいは“おまかせ”なんで。あの人、ものすごい量の仕事しているじゃないですか。それであのクォリティだからすごいなといつも思うんですけど。こっちも同じ手を何度も使うのは嫌じゃないですか。なので、例えばAimerちゃんの曲だったかな、前の日にDJのスクリレックス(Skrillex)とドアーズ(60年代にジム・モリソンを中心に結成されたサイケデリック・バンド)がコラボしているダブ・ステップの曲(「Breakn' A Sweat」/2012)を聞いたんです。ドアーズのアプローチがすごくて。ロビー・クリーガー(ギタリスト)ね。それを試しにやってみたんです。そういう事やっても全然OKなんです。そうやって植えていった種から出た芽みたいなものが、やっているうちにどんどん育っていくので、育った枝葉を摘んでトライする。過去十数年、ライヴもレコーディングもやっているけど、いまだに煮詰まらないですね。

楽器も音も全て自由にやれている?
新しい機材を手に入れたら一番に試せるところなんです。

いきなり武道館でレスポールを登場させるとか。(笑)(昨年11月に行われたKaji Fes. 2023)
だって使いたかったんだもん・・・

さっき日本で是永さんのギターの音を聞いてない人はいないって言ったのは、LiSAさんの鬼滅の刃の「炎(ほむら)」も是永さんのギターですし。
はい。

どこかでかかってる自身のプレイを偶然聞くってありますよね?
諸先輩方も結構あると思うんですけど、よくネットとかで聞いていて「うわ、これカッコいいな」、「何、コレ」、「誰やってるの」、「オレじゃん」ってのは何回かありました(笑)。あれ?でも俺どうやってこんなことを思いついたのだろうとか。そういう時は、だいたい梶ちゃんのだったりするんです。さっきの「炎」だと、あの曲はギターが4~5トラック入っているんですけど、全部1966年のES-345でワンセッティングなんです。すべてボリュームのコントロールとタッチだけで音色を変えているんです。クリーンなイントロで始まって、バンってなるところも、ちょっと落ちるところも全部コントロールだけ。古い345がそれに応えてくれて、うまくいった例なんです。

セミアコの歪だったんですね。
そうなんです。実は思ったほど歪ませていない。クランチ多めでディストーションではないです。何故かというと、ボリュームを2くらいにした時に完全なクリーン・サウンドというか、例えて言うと「Dream On」(エアロスミス)だったり「Stairway to Heaven」(レッド・ツェッペリン)のイントロみたいな。ああいうトーンのアルペジオのパターンを作りたいなと思ってやりました。それが出なくならない程度に歪ませている。

是永さんといえば、避けて通れないのがレベッカです。84年からレコーディングとアレンジに参加されていますが、当時20代前半ですよね。レベッカをやる準備は出来ていたと思いますか。それとも、やりながら学んだところもある?
23才の時で、それ以前はすごく先輩に恵まれていたので、大学入ったくらいからもう日本のフュージョン界のトップの人たちとやらせていただけるような機会が結構あって、同世代とはそんなにやってなかったんですね。先輩たちと六本木ピットインとかでやってたのも大好きでしたけど、その後ニューウェーブみたいな新しいものが出てきたじゃないですか。そういうのを同世代と一緒にやりたいってアイデアをためている時に、彼ら(レベッカ)とやることになったんです。“彼ら”という言い方がいいのか“ウチラは”っていう言い方がいいのかはわからないですけど。アレンジは一緒にアイデアを出し合う、そしてギターをプレイするっていう感じです。音楽以外では、例えばロックバンドを続けていくって、すごいことだと思うんです。大変だって意味でも。あの栄光の輝きもすごいですけど、その裏での“大変さ”。そういうことをやりながら学んでいった感じです。ただ、同世代の人達と新しい音楽を作る準備はできていました。

音作りに関しても当時最先端の機材を入れてますね。SDE(ローランド・デジタル・ディレイ、SDE-2000)が出た頃じゃないですか。
そうそう、SDEはあれ無かったら自分らの世代の音楽は無いかなぐらいな。

ディレイを効かせたシーケンス・フレーズ、「RASPBERRY DREAM」とか「MOON」とか。
そうですね、SDEありきでしたね。最初3枚め(WILD & HONEY/1985年)に参加した時は1000しか持ってなくて、その後グレードアップして3000もゲットした。

ギターの音が完全に曲の世界観の一部になっています。
あの頃は自分たちの時代の音楽をやっていた時で、アイデアはいくらでも出てくるじゃないですか。

80年代ってデジタル化したものもあったし、ものすごいスピードで機材が進化しました。色々なものが急激に出てきて、当然それに呼応するように音楽も変化していった時代だと思うんです。でも、そういう最新の機材、最新の音作りって、ひょっとしたら何十年後に聞いた時に恥ずかしいものになってしまうリスクもあるじゃないですか。でもレベッカは今聞いても女性ボーカルのバンドとして理想的な音作りだし、古さを全く感じない。何が違うのでしょうか。
僕が思うに狙ってた。みんなわりと確信犯なところがあったので、フリケンシ―(周波数)の配置の仕方がゴツくて。ちょっとコワいボトムに、中域をスカッと抜いて、そこにバンってボーカルがはまって。僕もギターは、あえて“ミッドのおいしさ”ではなくて中域をカットして、ちょっと上の方に持っていったり。あとローカットしたりとか、わざとしてるんです。それはNOKKOの声を活かしたくて。エンジニアの人がすごかったのもあるんですけど、結果として古く聞こえないのだったら、それは最高に嬉しい言葉です。

理想的じゃないですか。ボーカルの歌と歌詞がガツンと刺さるように出てくる、そしてオケのバランスも分離もよくてクリアって。
もちろんNOKKOの才能も大きいし、土橋さん(土橋安騎夫/キーボード)の曲だったり、みんなのサウンドもありますが、各自がそういうのを狙ってたと思うんですよ。多分みんな確信犯です。

近年の話になりますけど、アンプもエフェクターもアナログからデジタルまで、もう膨大な選択肢があって、今日もフラクタルとメサ・ブギーと両方を試していただきましたが、膨大な選択肢の中から何を選んで現場にどう落とし込んでいくのかって、プロとして重要なスキルだと思いますが、最適解を得るためのコツってあるんですか?
要するに自分にハマるかハマらないかじゃないですか。基本的にどっちかに走るっていうよりは、“組み合わせ”というか。もう一つは、ちょっとへそ曲がりなところがあるので、「コレ流行っているから、わざと違うことしよう」と思うところもあります。へそ曲がりが当たった時はメッチャいいですよね。もちろんハズすこともあります。

少し前に話題になった“ギター・ソロ不要論”って、どう感じました?
そんなのは全く気にしてなくて。例えば、ポップ・ミュージックだけをやっているわけじゃないし、仮にポップスの最前線にいても全く気にしない。イントロを短くするとかはアレンジャーとして試しにやってみたりしますけど。どこまで短くできるかみたいな。で、それも結局は流行り廃りで、その時代その時代にシフトしているわけじゃないですか。オールド・スクールの1960年代みたいな長~いギター・ソロは無くてもいいかなと思いますけど、みんなが好きだったらどっちでもいいと思ってるので。ギター・ソロ不要論は僕の時代もありました。さっき言ったように、もともと僕はフュージョン的な音楽をやっていて、ソロをすごくいっぱい弾いて、いわゆるシュレッド的なことをやってましたが、20代になってやりたいと思った音楽はギター・ソロが無かったんです。あってもチョーキングとか速弾きのギター・ソロじゃなかったんです。だからその時代に合った面白いことをやろうと思ったら、さっき言ったデジタル・ディレイが出てきたり、新しいアプローチが生まれて。でもその時代が終わって、パワー・ステーションとかティアーズ・フォー・フィアーズがギター・ソロ入れてから、またギター・ソロが盛り返してきたんです。いわゆるポップ・ミュージックの場だと。
だから、まったく気にしてないです。

今はネットでニュースになるから目立って、一瞬みんなザワってしますけど、結局はずっと回っている感じですかね。
そうそう。じゃなかったら「ジョン・メイヤー、あんなギター・ソロ長いのどうするんだよ」みたいな(笑)

是永さんのように活動したいってプロを目指しているギタリストも多くいるはずですが、ただギターが上手いだけで仕事ができるわけではないですよね。“ギターを弾く”を仕事にできる人/出来ない人の差って何だと思います?
例えば何かを聞いて、“これを弾けるようになりたい”というのが最初の動機としてあると思うんです。そこから“何かをクリエイトしていく”っていうのが次の関門で来ますよね。それから“ライヴで生で見せられる”。音だけでも本人/自分というキャラクターを見せられると思いますけど、やっぱりライヴだともっと見えるわけじゃないですか。プロという言い方が、セッション・プレイヤーであれ、バンドのアーティストであれ、その入り口はけっこう近いわけで、例えば自分は10代の頃はバリバリ弾くギター・ヒーローになりたかった。もちろん今も上手くなりたいんですけど、意外と違うところに行ったら、そっちからちょっと開けちゃったりとか、色々あったんで。そうではない、“オレは、やりたいことをやり通す”と、これもいいと思うんです。なんですけど、例えばマイケル・ジャクソンは「愛がなきゃだめ」って言うじゃないですか。それってやっぱり人に対する気持ちの表れだと思うんです。もうひとつ、すごく大きいことは、出会った人たちだと思います。やっぱり出会った人たちが新しい側面を見てくれたり、伸ばしてくれたり、導いてくれたりするじゃないですか。だから僕もそういう人がすごくたくさんいる。そして特別導いてくれた人も何人かいます。ASKAさんもそう。プロになるために人と出会うわけではないですけど、人に恵まれているってのは少なくとも財産だと思います。

そういう手を引いてくれる人というか、引いてあげたいと思われるってことも重要かもしれないですね。
あとは、“どれだけ好きか”ですよね。すごく長いことやっていても、うまく弾けないとか、いろいろな状況があるじゃないですか。それは精神的なものだったり肉体的なことだったり。“それでも弾きたい”って自分は思うんです。どれだけ好きかってことも重要だなと。それは大きなエネルギーだと思います。

年齢的に、是永さんが先輩方から受け継いだものを、これから後進のギタリストに伝えていくこともすごく意識されていると思いますが、最近、推しの若手のギタリストはいますか?
平等に言いたいけど、まあみんなが知っているあたりだと、こもちゃん(菰口雄矢/TRIX、ソロ)はすごいし、AssHくんもすごく気に入ってるし。あと僕のローディをちょっとしてたことがありますけど、中嶋ヤス(中嶋康孝/ソロ、スタジオ)。彼はギターもいいんですけどボーカルもすごくいいんですね。あとバンド系でも何人かいるけど、セッション・プレイヤーだとそのへんの人達。たくさんいますよね。「今、名前が出なかった後輩の君たち。君たちのこともホントは言ってるんだよ!」

楽しみですね、これからみんながどう育っていくかが。
プロデュースする時に、よくアーティストに言うんです「先に進んでくれるんだったら踏んでいってくれてもいい」って。


収録を終えて

栗田隆志 Gibson Brands Japan

是永さんの最初の印象は「なんて自然体の人なんだろう」でした。喜び、感動、不安、落ち込みを、くったくなく皆の前であらわにする。自らをアピールしなければいけない芸事の世界にいながら、なりたい、こうあるべきという自分を演じている感じがないのです。

初めての機材でも、あっという間にリファレンスとなる音を決めてしまい、収録の合間には好きな音楽と機材のことをずっと話し続けている。そして収録が終わる頃には、みんな是永さんのことを好きになっている。

この動画シリーズの収録はカメラの台数も多く、かつ至近距離から撮られるシーンも多いため、百戦錬磨のプロとはいえ、ある程度は緊張される方も多いのですが、業界のファーストコールであり、梶浦由記さんの武道館公演のステージでは2日間で60曲を弾ききっている、“ザ・プロフェッショナル”是永巧一が、収録の後半で放った「はやく録り終えて楽になりたい・・・」という一言。

皆の前でその不安を臆さず言葉にする、こんなことを自然体で言えることが、実は強さのカウンターなのかもしれません。

収録後、是永さんにメッセージを送りました。「このTAOSの動画制作に関わるチームは動画コンテンツではなく、作品をつくるという気概で取り組んでいます。作品とコンテンツの違いは、作り手の込めた想いが感じられるかどうかだと思います」と。それに対して返ってきたのが「そのチームの一員として、自らのターンをやらせていただきました」という一言。これこそが是永さんの仕事の流儀であり、レベッカをはじめ、いっしょに仕事をした人たち皆との信頼と共感を生み出し、そこから人の輪が広がっていくのだと思いました。

Product 使用ギターの仕様と特徴

1954 Les PaulAll Gold Murphy Lab Ultra Light Aged

1952年に発売されたレスポール・モデルにマイナーチェンジが加えられたのは1953-1954年にかけてだった。より弾きやすくするためのネック・セット角度の調整やチューニングを安定させるバー・ブリッジ/テイルピースの採用は、同時に豊かで力強いトーンをもたらすことになった。

ギターの顔となるヘッドストックには、薄いホリーウッド板にインレイとマスキングを組み合わせたホワイト・パール製のギブソン・ロゴがセットされているが、その位置とレスポール・モデルのシルクスクリーンが後年のモデルよりもナット側に下がっているのがゴールドトップ期の特徴。ヘッドストックは、ナット付近の厚みに対して先端を1mmほど薄く加工したテーパード仕様になっている。今回、是永が「Hello」で演奏した日本市場向けカスタム・オーダーの1954モデルは、ギタリストに人気の高い1959年スタイルのグリップ、そして同年から採用されたワイド・フレット仕様としている。ネックとボディのセット角度は1952年の発売当初から1950年代末のサンバースト期に向かって徐々に深くなってゆくが、このギターでは安定感のある弾き心地とテンション感、そして弦とピックアップとの適正な距離を実現するために4°±15に設定されている。

ゴールド・トップ・フィニッシュは、レス・ポール氏の提案によって誕生した。レスは入院している友人にプレゼントしたいと、全体をゴールドに仕上げたギターをリクエストした。レスポール・モデルの試作品はサンバースト仕上げだったが、特別に調合されたゴールド仕上げのギターはとてもクールだったことに加えて、メイプルとマホガニーを使ったレイヤード構造を隠すことができた。ギブソンではこの仕上げを市販モデルにも採用、1952年に発売されたレスポールはボディ・トップがゴールド仕上げ、ボディ・バックとネックはブラウンで仕上げられた。年代に関わらずギター全体をゴールドで仕上げたオール・ゴールド・カラーのレスポールは少数ながら確認されている。(レスポールと同じ1952年にES-175Dをオール・ゴールドに仕上げたES-295が発売されたことも興味深い)ゴールド・カラーは1958年半ばまでのレスポール・モデルに採用されていた唯一のフィニッシュだった。ギブソンのゴールド・カラーは、特別なブラスの金属粉を使った専用塗料で、メタルパウダーの乱反射によって深みのある個性的な色合いが生み出される。そして、鮮やかなゴールドはやがて金属成分が酸化することで、グリーンがかった沈んだ色合いへと変化してゆく。今回のギターは、ウルトラ・ライト・エイジドが施されており、ラッカー塗料ならではのウェザー・チェックと呼ばれるひび割れが加わったボディ・トップからは円熟した存在感が漂よってくる。

ブリッジに巻きつけるように弦を張ることからラップ・アラウンド・ブリッジと呼ばれるバー型ブリッジが登場したのは1953年。それ以前のトラピーズ・ブリッジはレス・ポール本人が開発したものだったが、プレイ中にブリッジ自体が動いてしまうことがあった。それを改良したバー・ブリッジはボディ深く打ち込まれたアンカーを介して取り付けられた太い2本のスティール製スダッド・スクリューにはめ込まれていて、ブリッジ自体は軽量のダイキャスト・アルミニウム製。この組み合わせによるエッジとサステインの効いたトーンはレスポールの人気を決定づけると共に、現在でもこのブリッジに拘るギタリストは多い。更に進化したチューン "O" マティック・ブリッジが1955年に登場した後も、ラップ・アラウンド・ブリッジはスペシャルやジュニア、一部のファイアーバード等に1960年代末まで使用されてゆくことになる。今回のギターではオリジナル同様に丸みを帯びた形状がダイキャスト・アルミニウムで再現されていて、取り付け位置だけは現在主流の弦ゲージに合わせて、わずかにアジャストされている。

1959 Les Paul StandardGreen Lemon Fade Murphy Lab Heavy Aged

1950年代のレスポールの最終型となるのが1958年半ばから1960年末まで製造されたサンバースト・スタンダードである。チューン "O" マティック・ブリッジ、ハムバッキング・ピックアップという最新のハードウェアに加えて、1958年に採用されたチェリー・サンバースト・フィニッシュ、そして、それに合わせてグレードアップされたセンター合わせのフレイム・メイプル材をボディ・トップに使用したことで、究極のクラシック・ソリッド・ギターが誕生した。実質2年半の間に約1,500本ほど生産されたサンバースト・レスポールは、ブルース・ブーム/ドライヴ・サウンドと共に、その後のロック・ギターを決定づけることになった。

1952年にギブソン初のソリッド・ギターとして発売されたレスポール・モデルは、年を追うごとにハードウェア類に手が加えられ、1955年にはチューン "O" マティック・ブリッジ/ストップ・バーテイルピースという機能性とトーン・バランスに優れたものへと進化した。戦後のギブソン・サウンドを支えてきたシングルコイルのP-90ピックアップから、セス・ラバーによって新しく開発されたダブルコイル構造のハムバッキング・ピックアップへと移行したのは1957年半ば。ピックアップ・ベース・プレートの裏側に“PATENT APPLIED FOR”と書かれたデカールが貼られた初期型ハムバッカーは1963年まで出荷されたが、製造工程上、または製造時期による個体差が大きく、それ故さまざまな伝説を生み出してきた。今回のギターにはカスタム・オーダー・オプションとして用意された、豊かな表情が魅力のアンダー・ワウンド仕様のカスタムバッカーが組み込まれている。

レス・ポール氏のリクエストによって作られたゴールド・フィニッシュは、レスポール・モデルのアイコンとして人気を博した。その一方で、ソリッド・ギターの市場が拡大するに伴い、アーチトップ譲りのサンバーストに仕上げられたソリッド・ギターが他社によって作られるようにもなっていった。1958年はギブソンにっとってエポックメイキングな年である。深いダブル・カッタウェイとセミ・アコースティック構造を備えたES-335の発売、そしてソリッド・ギターのレスポール・ジュニアもそれに倣ったダブル・カッタウェイ・シェイプとなり、その後のブランド・カラーともいうべきチェリー・レッド・フィニッシュが開発された。一方でレスポールはアーチトップ形状をダブルカッタウェイ・スタイルへと落とし込むことが難しかったこともあり、シェイプの変更は見送られた。そのかわりに、ボディ・バックとネックはチェリー・レッド、ボディのトップ側はバックに合わせたチェリー・サンバースト仕上げとなり、同時にトップに使われているメイプルが中央で木目を合わせたフレイム材へとグレードアップされたのである。ゴールドからチェリー・サンバーストへと仕様変更されたレスポール・スタンダードの本体価格は247.5ドルのままに据え置かれたが、これは同じ価格帯で競っていた競合他社製のギターを意識したためかもしれない。1958年に初めて採用されたチェリー・サンバーストは、ショップの店頭で色が抜け始めるほど退色しやすかったことが確認されたため、1960年後半からはややダークで退色しにくいものへと変更された。それ以前のものは、現在では驚くほど多様な色合いへと経年変化している。チェリーに含まれる赤、青、黄、黒の中でも特に赤色の退色は早く、その結果、チェリー・サンバーストはブラウン系のサンバーストへと推移してゆく。その後、やや緑がかったブラウンに変化することも多い。

サンバースト期のレスポールはスタンダードとカスタムがシングル・カッタウェイ、そして下位機種のスペシャルとジュニアがダブル・カッタウェイという、価格と機能性が逆転していた時期でもある。競合を意識して水面下では、ダブル・カッタウェイ、軽量化、そしてヴィブラートを備えたニュー・スタイルの開発が進められていたのだろう。満を持する形で、フルモデルチェンジされたSGスタイルのギターが登場したのは1961年初頭だった。その背景にあるのは、人気の下降ではなく(サンバースト・レスポールの中古価格はわずか数年の間に高騰した)、この時期ギブソンが大量のバックオーダーを抱えていたことがあげられる。フラットなボディ形状、チェリー単色での仕上げという生産効率に優れたSGへと進化したことで、新しいモデルの出荷台数は2倍以上に跳ね上がった。

文:關野淳
大手楽器店、リペア・ショップを経て、現在は楽器誌、音楽誌で豊富な知見に基づく執筆を行うヴィンテージ・エキスパート&ライター。