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Epiphone 140 Years
Epiphoneは、アメリカで最も歴史があり賞賛されている楽器メーカーのひとつです。1873年以降、あらゆるスタイルのポピュラーミュージックに対応する楽器を製造し、2013年には140周年を迎えました。Epiphoneの名は、歴史と発明の精神を想起させます。1900年代初頭のマンドリンの大流行期から米国の狂騒の20年代と呼ばれたギターの時代への変遷期、アーチトップギターのスイングジャズ時代から戦後のポピュラー音楽、ジャズ、R&Bそして初期のロックンロールへの変遷期、また、"British Invasion" (ブリティッシュ・インヴェィジョン: 1960年代に米国を席巻した英国アーティストによる一大ブーム)の時期からへヴィーメタル、パンク、グランジ、スラッシュメタルへの変遷期など、各時代時代において、“House of Stathopoulo” (スタトポウロの家系)が、変遷する偉大な音楽ムーヴメントの中で中心的な役割を担い続けてきました。そして21世紀になった現在でも、その発明の精神は継承され、ProBucker™ ピックアップ、シリーズ/パラレル切替用プッシュ/プル・スイッチ、KillSwitch™ ポット、Shadow NanoFlex™、NanoMag™ ピックアップシステム、eSonic™ プリアンプを搭載したエレアコ等、エピフォンによる新たな技術上の躍進ぶりは健在で、エピフォン製品は旧世代の商品から新世代の商品へとレベルを上げ、進歩し続けています。
小規模な家族経営のリペア工房を出発点に、高品質の楽器の製造における世界的なリーディングカンパニーにまで上り詰めるという、一見起こりえないようなエピフォンの躍進の軌跡は、容易に偉大なアメリカの小説の題材になり得るでしょう。但し、このストーリーは真実なのです。
Epiphoneの物語は、ギリシャの山岳地帯で幕を開け、トルコへと続き、そして大西洋を渡り、移民にとっての玄関口である「エリス島」からアメリカへと舞台を移し、1920年代から1930年代のマンハッタンのナイトクラブやレコーディングスタジオ、全米へのラジオ放送へと縫うように突き進んでいきます。Epiphoneの物語は、父から子へ受け継がれる、やっとの思いで手にできたクラフツマンシップとイノヴェーションへの飽くなき探求のストーリーなのです。
エピフォンの歴史に登場するミュージシャンの多様さ・幅広さは際立っています。Jazz の巨人ジョージ・ヴァン・エプス、カントリーギターのパイオニアであるハンク・ガーランド、ブルースマンのジョン・リー・フッカー、そして数多くのマンドリン、アーチトップ、スチールギタープレーヤー達がエピフォンの楽器を日々、全米放送を通してプレイしてきました。エピフォンのストーリーの中にも、通常はありえないようなヒーローや、実験に明け暮れるような人物が存在しました。ちょうど、ギターの先駆者であるLes Paulのような人物です。ちなみにLes Paulは夜な夜な、ニューヨークのエピフォン工場で研究に明け暮れ、"the Log"と呼ばれる楽器を創りだしたのです。それは、最終的には"Les Paul"と呼ばれるようになるであろう、ソリッドギターの原型だったのです。比類ない才能を持つビートルズのベーシストであるPaul McCartneyは、最初のアメリカ製のギターとしてEpiphone Casinoをチョイスしました。John LennonとGeorge Harrisonはすぐさまポールに続いてCasinoを入手しました。"Help”から"Abbey road”までの全てのアルバムでCasinoの音が収められています。今日でも、Epiphoneのサウンドは、以下のような素晴らしいミュージシャンのアルバムで聴くことができます。Gary Clark, Jr., Alabama Shakes, My Chemical Romance, Joe Bonamassa, Nirvana, Johnny Winter, Zakk Wylde, Machine Head, Dwight Yoakam, The Strokes, Slash, Jeff Waters, Paul Simon, Radiohead, The Waco Brothers, Lenny Kravitz そしてPaul Weller達のアルバムです。
もしタイムマシーンがあって、今日のEpiphoneプレイヤーを、今から60年前のニューヨークの一流ミュージシャン達の溜り場であったEpi Stathopouloのショールームへ連れてこれるのならば、何世代にもわたる世代を超えたミュージシャン達は、異口同音にこう唱えるでしょう。Epiphoneといえば、いつだって“House of Stathopoulo” (スタトポウロの家系)のことなのだということを。今日、Epiphoneは変わらずに革新的であり続け、ミュージシャン達を喜ばせ続け、斬新なデザインと優れたクオリティでライバルメーカーに強敵だと認識され続けているのです。
"Epiphoneはいつだって最高のギターを作っていたね" とLes Paulは過去に語ったことがあります。つまるところ、それこそがどんなミュージシャンだって求めていることなのです。
Epiphoneストーリーの第一章は、約140年前のギリシャ、古都スパルタを見下ろすカスタニアの山岳地帯から始まります。家系伝説によると、Kostantinos Stathopoulo(コンスタンティノス・スタトポウロ)は、1865年に息子のAnastasios(アナスタシオ)の出生届けを提出するため、カスタニアを出発してエウロータス盆地のマグラへ旅をしています。Anastasios(アナスタシオ)が12歳になる頃までの、1873年までの一家の詳細はあまり知られてはいません。その後、Stathopoulo(スタトポウロ)一家はギリシャを離れ、多くのギリシャ系移民の商人や職人であふれかえる賑やかなトルコの港町、Smyrna(スミュルナ)に移住します。そこで、Kostantinos(コンスタンティノス)は木材商として身を立てます。Kostantinos(コンスタンティノス)はしばしばAnastasios(アナスタシオ)を連れてヨーロッパ中まで出向き、Anastasios(アナスタシオ)は父親の交渉術を観察し、トーンウッドについての知識を得ていきます。
このころ、一家はSmyrna(スミュルナ) にlutes(リュート)やviolins(ヴァイオリン)やbouzoukis(ブズーキ)のリペアショップを設立しました。1890年頃までには、アナスタシオの才能豊かなルシアーとしての評判は高まり、アナスタシオが自身の工房を持てるほどに業容が拡大していきます。
アナスタシオは結婚し、1893年には息子Epaminondas(エパミノンダス)が誕生します。続いて、 Alex(アレックス)、Minnie(ミニー)、Orpheu(オルフェ)、 Frixo(フリクソ)の兄弟が順に生を受けることになります。
ギリシャ移民に高い税金を課すオスマン帝国の支配下で、Stathopoulo(スタトポウロ)一家は厳しい生活を強いられ、Anastasios(アナスタシオ)が40歳になったのを機に、アメリカ行きの船に乗り込みます。1904年の公的記録では、Stathopoulo(スタトポウロ)は多くのギリシャ移民とイタリア移民が住む 56 Roosevelt on Manhattan's Lower East sideに居を構えています。Anastasios(アナスタシオ)はアメリカ移住後すぐに楽器ビジネスに着手し、すぐにアメリカ流のビジネスのやり方を吸収します。彼は、イタリアン・スタイルのボール型の背板をしたマンドリンで、自身の最初にして唯一の特許を1909年の3月25日に出願します。Anastasios(アナスタシオ)の楽器は遂に英語で書かれた商標を持つようになりました。
A. Stathopoulo
Manufacturer, repairer
of all kinds
of musical instruments
Patentee of the Orpheum Lyra
New York, 1911 U.S.A.
長男のEpi (エピ-エパミノンダスの愛称)はすぐにアメリカの生活に溶け込み、コロンビア大学を優秀な成績で卒業します。アナスタシオが1階で楽器の製造、販売を行い、家族は上の階で生活をするという仕事とプライベートの垣根の無い生活の中で、Epi(エピ)とOrpheus (オルフェ)は247 West 42nd Streetに位置する父のリペアショップをすぐに手伝うようになります。
Epiがまだ22歳の時、Anastasios(アナスタシオ)が亡くなり、Epiは父の事業を引き継ぐことになります。すでに父から多くを学んでいたEpiは市場での自身の存在感を確立すべく、父の古いラベルを新たに"The House of Stathopoulo, Quality Instruments Since 1873." へと変更しました。修業時代に既にアマチュアデザイナー/開発者として経験を積んでいたEpiは会社の主要な役割を担い、バンジョーのトーンリングとリムコンストラクションで初の特許(1,248,196)がE. A. Stathopouloに付与されます。
1923年の母の死後、会社経営に必要な規模の株式数を引き受け、Epi(エピ)は古風なスタイルのマンドリンの製作を徐々に廃止し、第一次大戦後に米国で最も普及することになるバンジョーのRecording lineの導入を開始します。
「レコーディングシリーズ」はアルファベット順に広告に記載されました。Recording (A)が$125、 Bandmasterが$200、the Concertが$275、そしてDe Luxeが$350でした。Epiはビジネスの拡大を続け、彼の一流の仕事ぶりへの評判は高まっていきました。Epi一家は、Long IslandのFarovan Company楽器工場の株、経営権、最新機材を取得し法人化しました。Epiは成長を続ける会社の社名をギリシャ語の音(Phone)と彼の愛称”エピ(Epi)を合わせたEpiphoneへと改名します。“Epiphone”はまた、ギリシャ語のepiphonousという共鳴・反響の意もあります。ひとつひとつのサウンドが重なることを意味し、父の夢を息子が受け継ぐことも意味します。
Epi(エピ)は社長兼GMに就任し、今後のEpiphoneのビジネスは登録商標名をEpiphoneとし、バンジョー、テナーバンジョー、バンジョーマンドリン、バンジョーギター、バンジョーウクレレの製造に特化する方針を業界誌や広告で発表しました。
Epiはロングアイランド工場の熟練した職人達の大部分を引き留めました。製造数は増加し、品質も向上しました。Emperor tenor banjo ($500)、Dansant ($450)、Concert Special ($300)そしてAlhambra ($200)などの豪華な装飾があしらわれたバンジョーモデルが1927年に登場します。事業は好調で、Orphie(オルフェ)は副社長に就任し、Stathopoulo(スタトポウロ)兄弟の会社はニューヨークの235-237 West 47th Street.へと移転します。
Epiphone Banjo Companyは1928年まで大手楽器ディストリビューターのSelmer/Conn and the Continental Music line of stores向けにバンジョーを製作していました。1928年、当時最大のライバルであったGibsonに対抗すべく最初のアコースティックギターのシリーズを発表します。
The Recording Series
アコースティックギターのレコーディングシリーズは、バンジョーと同様にA~Eのアルファベット順にモデル名が付けられ、その独特の形状から注目を集めました。このモデルはスプルースとラミネートメイプルのボディ構造を持ち、アーチトップ、フラットトップの2つのバージョンがありました。
レコーディングシリーズの発売当初、エンドース・アーティストがいなかったことや音量が十分でなかった要因により、売れ行きはあまり芳しいものではありませんでした。レコーディングシリーズは、1922年に発表され瞬く間に定番モデルとなったGibsonのL-5に比べ、小さすぎて装飾も多すぎました。L-5は、出音の飛び方、トーンに優れ、ビッグバンドのリズムセクションに、音楽的な音色とスネアドラムのようなアタック感をもたらしていました。
1929年の世界恐慌以降もバンジョーの売れ行きは好調でしたが、アーチトップギターのブームがきており、品質とデザインにおいてGibsonが最大の競合になるであろうことをEpi(エピ)は鋭く察していました。そして1931年、Epiphone Banjo Companyはカーブドトップ、F-holeをフィーチャーした7モデルを$35から$275の価格帯で発表しました。
Epiphoneの新しいラインナップはL-5の影響が随所に見てとれます。新しいモデルのF-Hole、ペグヘッド、そしてモデル名までもがGibsonのマスターモデルとよく似ています。Epi(エピ)は引き続き、ミュージシャン達が覚えやすく、所有に際し誇りに思えるモデル名を付けることで、会社を特徴づけていきました。
マスタービルトのラインナップには、De Luxe ($275)、Broadway ($175)、Triumph ($125)が含まれていました。広告によると、De Luxeは、カーヴド・スプルース・トップ、フレイム・カーリー・メイプル・バック、全体におけるヴァイオリン的な構造、大きめの"f" ホール、ブラックとホワイトのバインディング、そして、甘い響きのよいトーンが特徴となっていました。
1930年代を通して、EpiphoneとGibsonのライバル関係は友好的なスパーリングの状態から総力を挙げての交戦状態へと姿を変えていきます。1934年、Gibsonは新たなアーチトップモデルのデザインを導入し応酬します。そのモデルは、既存モデルよりもボディ幅を拡大した、$400で価格設定された特大サイズのSuper400でした。それに負けじとEpi(エピ)は翌年に、最高級品に位置づけられたEmperorの発表で応戦します。EmperorはSuper400よりも僅かにボディ幅が増してあり、エピフォンのアーチトップギターを抱えたヌードの女性を起用した挑発的な広告キャンペーンを打つことで、この戦いにおける賭けの度合を高めていきました。1936年、Epiphoneは更にやってのけます。De Luxe, Broadway, Triumph の各モデルのボディ幅を更に1インチ分拡大し、Gibsonのアーチトップよりボディ幅を3/8インチ分拡大させ、ギター市場での存在感を増していきました。1930年代中ごろまでには、Epiphoneのギターは世界のトップモデルとして認識されるようになりました。Epi(エピ)自身も、当時の音楽シーンを彩る著名なアーティスト達と良好な関係を築いていきました。このころEpiphoneはロンドンのHandcraft Ltd.とディストリビューション契約を交わしギターの輸出を開始します。さらにリトルイタリーに程近い142 West 14th Streetにある7階立てのボザール様式の建物の中に、新しいショールームをオープンしました。
この新しいビルには、一般に告知された最先端の研究開発部門が置かれていました。エピフォン・ショールームの一階は、本社でもありミュージシャンの溜り場でもありました。土曜の午後、Epi(エピ)はギターの展示ケースを開放し、Al Caiola, Harry Volpe, Les Paulなどの売れっ子ギタリストを招き入れ、歩道の通行人が耳を傾けられるようにして、ジャムセッションの機会を提供していました。
Epi(エピ)は当時、リッケンバッカーのエレクトリック・スティール・ギターが好調な売れ行きをみせていることを認識していました。そこで彼は、1935年にElectarシリーズ(発売当初はElectraphoneと呼ばれていました)の導入に踏み切ります。Epi(エピ)によるユニークな特徴あるデザインとして、マスター・ピックアップ上で各弦用に独立して高さ調節ができるポールピースが採用されていました。Electarシリーズの発表により、Epiphoneの革新的なブランドイメージはさらに強固になりました。1930年代後半頃には売上が倍増し、Epi(エピ)と他社によるコラボレーションも増加していきました。1936年7月、EpiphoneはシカゴのStevens Hotel で開催されたNAMMショーにて、数点の新製品をお披露目しました。その中には、ニュージャージー州のミルバーンにある Meissner Inventions Companyとの共同開発による電化ピアノも含まれていました。この時期、Les Paul(レス・ポール)の友人であり、エレクトロニクスに造詣の深いNat Daniel(ナット・ダニエル)との出会いがきっかけとなり、アンプの製造・販売も開始しました。ダニエルは、革新的なプッシュ/プル・スイッチの回路設計を完璧なものへと仕上げました。これは、今日のアンプの多くに予め備え付けられている回路設計です。エピフォンのスタッフはダニエルのアンプの評判を耳にし、ダニエルを雇いいれ、彼は新しいデザインに加えてシャーシーの設計も受け持つにようになりました。(その後ダニエルは、1950年代にダンエレクトロのギターとアンプの製品ラインをスタートさせることになりました。)
第二次世界大戦へ米国が突入することになる1930年代の終盤になっても、エピフォンとギブソンの熾烈なライバル関係は弱まる気配がほとんど見られませんでした。1939年両社は、ペダルスチールギターの前身といえる、ハワイアンギターのように音程を変化させられるギターのデザインを考案し発表しました。Gibsonがヴァイオリンの製品群を発表すると、Epiphoneはアップライトベースの製品群を発表しました。しかし終に第二次世界大戦が勃発します。資材不足により世界中のギター製造会社がやむなく閉鎖に追い込まれる中、ようやく両社のライバル関係に終止符が打たれます。
低迷期
戦争が状況を一変させました。エピフォンは1941年の真珠湾攻撃の前までは、その絶頂期にありました。1945年の終戦までに会社は既に甚大な資産を失っており、Epiは戦時中に白血病で亡くなっていました。エピフォンの株と営業権はEpiの弟達、Orphie(オルフェ)とFrixo(フリクソ)に引き継がれました。
その後、困難な状況が徐々に表面化してくることになります。Epiphoneは引き続きGibsonと真っ向から衝突し続けていました。両社は最高級ラインのアーチトップギターのエレクトリック・カッタウェイ版の市場への導入を続けていました。引き続き、ピックアップの改良は進み、多くのプレイヤーはエピフォンギターとともにステージに上がっていました。傍目には、ビジネスは通常と変わらず順調そうに見えました。
しかし程なく、生産ライン内部においても、経営陣の内部においても、至るところに亀裂が顕在化してきました。Stathopoulo(スタトポウロ)兄弟は会社の未来について言い争うようになり、1948年にFrixo(フリクソ)は彼の持株をOrphie(オルフェ)に販売譲渡することになります。Epi(エピ)が1920年代、1930年代を通して築きあげてきたクラフツマンシップと革新性による会社の名声は、第二次大戦期を生き長らえることはできなかったのです。顧客の嗜好は変化していき、Epiphoneの製品はその変化についていけず、伝統的すぎて時代と調和していないように見えたのです。1953年、ユニオンの争議を避けるため、Epiphoneの工場はニューヨークのマンハッタンからフィラデルフィアへと移転しました。ところが、多くのクラフツマンはニューヨークを離れることを拒みました。
EPIPHONE AND GIBSON
50年代初頭、かつてEpiphoneの工房で深夜にソリッドギターの試作品開発に取り組んでいたLes Paul(レス・ポール)は、その名を国中に知られる存在となっており、彼の名が刻まれたGibson Les Paulをラジオ、テレビなどで演奏し、ヒット曲を量産していました。Lesは、もう既にエピフォンの工場でソリッドボディ構造のギターのデザインの完成形に到達していました。その頃、フェンダーがテレキャスターの登場とともに存在感を示しだすと、Gibson社・社長のTed McCarty(テッド・マッカーティ)はLes Paul(レス・ポール)をソリッドボディ・エレクトリック・ギターにおける初のエンドーサーに抜擢したのです。
エピフォンの運命は引き続き下降線上にあったので、レスはマッカーティに、エピフォンに手を差し伸べるよう提案しました。マッカーティは、レスのアドヴァイス通りにOrphie(オルフェ)に接触し、エピフォンの非常に評価の高いアップライトベース部門へのギブソン側からの関心を表明しました。アップライトベースについて、大戦以降ギブソンには依然として生産体制が敷かれていなかったためです。その後、1957年にOrphie(オルフェ)がマッカーティに返答した時、マッカーティはEpiphoneの会社全体についてオファーされることとなりました。その内訳には、フィラデルフィア工場に残る完成品の在庫が含まれ、$20,000でのオファーでした。マッカーティはGibson社を代表して、そのオファーを承諾しました。こうしてStathopoulo(スタトポウロ)家による楽器ビジネスが終焉を迎えたのです。
マッカーティの当初の目論見では、Epiphone製のベースの製品群をGibsonカタログに迎え入れるということでしたが、1957年時点で彼は考え方を変更しました。マッカーティが同年に記したメモによれば、Epiphoneブランドは新たなモデルラインナップの展開を行うことで復活するであろう、という内容でした。
マッカーティのマーケティングプランは、Gibson社との販売契約を切望しているが過去に十分な利益を出せているディーラーだと証明できていないディーラーに対し、Gibson工場製のEpiphoneのモデルを提供する、というものでした。(当時Gibson製品の販売権は、ディーラー間において争いの的でした)マッカーティの案は完璧なソリューション・解決策だったのです。ディーラーはGibsonと同クオリティの製品を取り扱うことができ、それも既にギブソン製品を販売しているディーラーの商売や商圏を荒らすことなく実現したからです。Epiphone全体の生産体制はミシガン州のカラマズーへと移されました。Epiphoneは再び活躍の場に戻ってきたのです。
新たな始まり
Epiphoneが長らくGibsonの影に隠れているということはありませんでした。1958年に新ラインアップでの展開が開始しディーラーへの選別が始まった時、この2ブランド(Gibson、Epiphone)はもはや3つの別個のアイデンティティを有していることが明らかになりました。Epiphoneは既存のGibsonのモデルのローエンド・バージョンとして位置づけられました。しかしながら、それらのモデルと並行して、Emperor, Deluxe, Triumph といったEpiphoneの伝統的デザインによる大定番の再生産モデルがあり、セミホローボディの新製品であるSheraton 、ソリッドボディのModerne BlackやGibsonカラマズー工場では初生産となるスクエア・ショルダー・ボディ仕様のFrontierのようなフラットトップのアコースティクギターなどもラインナップされたのです。アンプの新製品も加わり、Epiphoneのデザイナー達は迅速に彼らの独立性を確立していったことが見てとれます。
エレクトリック仕様のEmperorをフラッグシップモデルとしたEpiphoneの製品群は、1958年7月のNAMMショーにて、仕切り直しのかたちで大きく披露されました。
このショーで、226本のギターと63個のアンプのオーダーを受けました。その後の数年間の中で、Epiphoneは、1961年に3798本を出荷し、1965年までにはカラマズー工場から出荷されたトータル本数の20%の割合にまで生産・出荷数を伸ばしていきました。さらに際立っていたのは製品の評判でした。1960年代初頭、Epiphone EmperorはGibsonの最上級ラインのGibson Byrdlandより高価な価格設定でした。同様に、1963年のデラックス・フラット・トップ・ExcellenteはJ-200よりも$100高額な価格設定で、よりレアなトーンウッドを用いて製作されていました。
1960年初頭にフォークミュージック・ブームが起き、Epiphoneはその需要に応える準備ができていました。Madrid, Espana, Entradaの各モデルに加えて、1961年にクラシカルギターのSeville (PU付き、PU無しの両バージョン) が導入されました。1962年、Epiphoneは12弦仕様のBard を、その小ぶりなバージョンのSerenaderとともにリリースしました。Bardを用いて、Roy Orbisonは"Oh, Pretty Woman"や"Only The Lonely"を作曲しました。また1963年、スチール弦仕様のTroubadourがリリースされました。
Epiphoneのエレクトリックギターの製品群及びアコースティックギターの製品群も同様に高い商品性を誇りますが、エレクトリックで最も有名な商品は、1961年にリリースされたダブルカッタウェー仕様のCasinoでした。1966年頃にビートルズがCasinoを抱えて登場してきた時、世界で最もビッグなポップバンドによるCasinoのチョイスとあって、Epiphoneの復活は磐石だという印象を与えました。当時のカタログには14機種のエレクトリック・アーチトップ、6機種のソリッドボディ・エレクトリック、3機種のベース、7機種のスチールストリング・フラットトップ、6機種のクラシカルギター、4機種のアコースティック・アーチトップ、3機種のバンジョーと1機種のマンドリンが掲載されていました。
1960年代の序盤から中盤の時期は、Epiphoneにとって好況期でした。1961年から1965年の間に、本数ベースで出荷が5倍に伸びました。しかし、60年代後半に台頭した海外製のコピーモデルは、EpiphoneとGibsonのマーケットシェアのうち40%を奪い取ることになり、マーケット全体でも多くの会社を廃業させることになりました。
他にも問題は生じました。Gibsonのテッド・マッカーティはGibsonをリタイアし、ビグズビーの経営者になりました。予算はカットされました。ギブソンの親会社であるCMIは1969年にビール会社のthe Ecuadorian ECL Corporationに買収され、Epiphoneは窮地に陥りました。当時、第二のGibsonのポジションで認知されていましたが、より品質の劣る海外製のコピーモデルと価格で競争できるほどには、Epiphoneを安価で販売するわけにもいきませんでした。
ECLに買収される前、Epiphoneが日本での製造体制に変更される可能性が検討されていました。そして1970年までに、米国内でのEpiphoneの生産は終了し、日本の松本に生産拠点が移されました。しかしながら、最初の数年間の間、日本製のEpiphoneギターは、実際にはマツモク社によって既に生産されていたギターのロゴなどの商標を変えただけのものでした。Epiphoneの製品群は、ギターの世界で実質的に孤児となってしまったのです。
しかしその後、製品は徐々に改善していきました。1976年、EpiphoneはソリッドボディのGenesis に加え、ボディにスクロールのついたエレクトリックであるMonticello、フラットトップの新製品であるPresentation、フラットトップのNovaシリーズを導入しました。1979年までにはEpiphoneの製品群は拡大していき、20機種以上のスチール弦のフラットトップとエレクトリックを揃えるようになりました。
韓国製Epiphone
80年代前半、日本での生産コスト上昇により、Epiphoneはサミック社と協力して1983年に韓国へ拠点を移すことになりました。1986年、ハーバード大卒のMBA取得者であるHenry Juszkiewicz,David BerrymanそしてGary Zebrowskiの3人は、Gibson/EpiphoneをECL/Norlinから買収しました。新オーナー達にとって、ギブソンの再生が最優先課題でした。Epiphoneに関しては1985年時点で$1 millionに満たない売り上げ規模であり、100年の歴史がある会社にもかかわらず、再度、棚上げの状態になりました。
しかしながら、新オーナーのJuszkiewiczとBerrymanは直ちにエピフォンは眠れる巨人であることを理解し、韓国へ飛びます。当時アジアで成功を収めていたCharvelやKramerに肩を並べられるように、どのようにEpiphoneをブランディングするべきか決定するためでした。彼らはEpiphoneの血筋と伝統を即座に取り入れて理解し、エピフォン固有のモデル群は復活し、新しい生産技術は成果を生み始めました。程なく売り上げはV字回復し始めました。
1988年までには、Epiphoneは以下のラインナップを取り揃えました。スクエアショルダーのアコースティックである新たなPRシリーズ、Gibson J-180のエピフォン版のモデル、数モデルのクラシカルギター、バンジョー、マンドリンなどです。ラインアップにはGibsonの血筋を引くLes PaulやSGのようなソリッドギターも含まれていました。また、Howard Roberts Fusionのような新たなアーチトップモデルや新たに復活したSheratonなどもラインナップされていました。
世界を相手にする
1990年代までには、Epiphoneの製品ラインナップは様々なスタイルや価格帯を網羅し、43モデルを取り揃えるまでに至りました。Gibson社・社長のDavid BerrymanはソウルにEpiphoneのオフィスを開設し、プロダクトマネージャーとしてJim Rosenbergを任命しました。世界に対して、Epiphoneを革新的なギターメーカーとして再導入するよう着手し始めました。
ソウルでのオフィスの開設は、新生Epiphoneにとって大きなターニングポイントとなりました。エンジニアやルシアー達は会社を作り変えるために協力しました。この急激な再編の間、Epiphone製品は想像以上に変化していきました。工場の製造プロセスは再チェックされ、洗練されました。Epiphone所属のエンジニアは、ユニークで特徴あるメタル製のEロゴやfrequensator tailpieceに加えて、ピックアップ、ブリッジ、トグルスイッチ、指板インレイなどの開発において実践的な役割を果たしました。財政面でも精神面でも、エピフォンはすべてを製品に注ぎ込みました。そしてギター市場は好意的な反応を示したのです。1993年のNAMMショーまでに、アコースティックとエレクトリックの新製品がデビューを飾り、ギタリストから好意的な評価やレスポンスを受けるようになりました。
1993年、RivieraとSheratonのリミテッドランがGibsonのナッシュヴィル工場で生産されました。モンタナのアコースティック工場では、250本のExcellente、Texan、Frontierなどのフラットトップ・アコースティックギターが生産されました。これらEpiphoneのモデルは特別な企画として米国内で生産されたのですが、ユーザーからの評判が高かったため、マネージャーのJim Rosenbergはその後もっと多くのクラシックな定番モデルを復刻するようになりました。
1994年のNAMMショーに訪れた人々は、Casino,Riviera,Sorrento,RivoliといったEpiphoneの伝説的なモデルの再デビューを目の当たりにすることとなりました。その後何ヶ月もの間、噂は広がり、Chet AtkinsからOasisのNoel Gallagherまで様々なジャンルのアーティストがEpiphoneアーティストとして契約し、Epiphoneは変わらずに偉大なギター製造会社であることが証明されました。
90年代後半のEpiphoneはほぼ間違いなく、歴史上の黄金期と同様に成功を収めていました。Advanced Jumboシリーズや数機種の重要なシグネチャーモデルがリリースされました。John Lee Hooker SheratonsやNoel Gallagher Supernovaといったモデルです。ともに大きな成功を収めました。
John Lennon 1965 CasinoとRevolution Casinoは、これ以上ないほどの正真正銘さと品質を誇り、Epiphoneと全時代を通じて最大級のアーティストのひとりを再度結び付け、音楽界の伝説的存在としてのEpiphoneの再興を印象付けました。
2000年にEpiphoneはElitistモデルをリリースしました。ヴェテラン・ルシアーであるマイク・ヴォルツのプロジェクトへの参画を得て、アコースティックギター市場でのポジションを磐石にしました。ヴォルツはEpiphone製品を再度開発することに大きな貢献をし、エレクトリックギターを蘇らせ、2005年のPaul McCartney 1964 USA Texanとともにマスタービルト・シリーズの市場への再導入に大きな役割を果たしました。
Epiphoneに対する国際的な需要は高まっていき、2004年に中国にて新工場を開設するにいたります。1957年にEpiphoneがGibsonに吸収されて以来Epiphoneが専用の工場を保有するのは初めてのこととなりました。
今日、Epiphoneはあらゆるジャンルのそれぞれのプレイヤーに最高のギターを提供しています。ワーキング・ミュージシャン達は、カラマズー工場製のお気に入りのモデルに基づいたお求め安いバージョンの製品群や、Wilshire Phant-o-matic、Ultra IIIといった新製品群により、エピフォンを高く評価しています。ヴィンテージ・ギター・コレクターは、Emperor、Casino、Excellenteといった正真正銘の Elitist(エリーティスト)シリーズの復刻品に手を伸ばしています。エピフォンのクオリティは世界中のどんなギター製造業者のクオリティにも引けをとっていません。ロックンロール・ファンはMarcus Henderson Apparition、Zakk Wylde ZV Custom、Joe Bonamassa Goldtopといったエピフォンのシグネチャーモデルに歓喜の声をあげているのです。
2013年Epiphoneは、プロフェッショナルなミュージシャン御用達の楽器メーカーとして、140周年を迎えます。エピフォンには今も変わらず、Epi Stathopoulo(エピ・スタトポウロ)のパイオニアスピリットが受け継がれています。そしてこれからもEpiphoneは、ナッシュヴィルの新しい本社より、手頃な価格での本物の品質と革新的な製品というスタンダードを今後も掲げていきます。Epiphoneは、常に最高の楽器を提供しながらリスクを糧に成長してまいります。
"Epiphoneといえば、今も変わらずStathopoulo(スタトポウロ)家を指します。
我々はデザイナーです。プレイヤーでもあります。また、独立独行のブランドでもあります。
そして、成すことすべてに情熱的であり続けます"